中編ではようやく公演の初日を迎える事ができるまでを書いてきた。
後編では日本の常識を外国に持ち込んだらどれだけいけないのかを書こうと思う。
そして、この内蒙古公演がどうなったのかを。
“内蒙古政府礼堂公演”
ようやく公演前日の夜に使用ができることになった内蒙古政府礼堂であったが、翌日の午後からはリハーサル、そして夜には本番は始まる。
私たちは本番に向けてのホールの準備に追われた。
現状は・・・
香港テレビ局側は道具系の全てを撤去していてくれた。ついでに吊り込んであった照明も一式撤去。
残ったのは敷いたままのバレエリノニウム・・・
日本だったらオイオイ!と文句を言いたくなるが、何せそれまでの経緯が経緯だ。
そこに使えるホールがあるだけで嬉しい!
しかし、このままではオケの公演などできない。
流石にリノニウムの上での演奏をプロのオーケストラにお願いはできない。
バラすことも許されないので、まず、各関係者に相談して許可を得て、内蒙古歌舞団(※)にコンパネを借りて、リノニウムの上に敷き、最低ラインのカタチを作った。
さらに山台を組むのであるが、これも日本のホールとかなり事情は違う。
高さ1尺~2尺、大きさもバラバラの平台(というよりでかい積み木)が袖に「天井」まで積み上げてある。その高さ約10メートル・・・
始めて見たときは「あり得ない」と呆然としたが、もうすでにそれまでの経験を乗り越えてきた私たちには「何とかなる」と言う非常にポジティブな精神が宿っていた。
これも内蒙古歌舞団にお願いし、彼らは慣れた(?)手つきでそれらを降ろし、無事に山台も設営完了!
と、上を見上げたら今度は天井にあるはずのボーダーやサスなど全くなく、薄暗い蛍光灯のみがボヤッと光っていた。
どうするんだ!とワイワイやっている時に、またしても内蒙古歌舞団が自分のところの灯体を持ってきてオペレートまでしてくれると。本当にありがたい。
しかし、ギリギリ本番になるからと、リハは指揮者とオケに頭を下げて「作業灯」で行った。
まぁ、そんなバタバタをしている中で、今度は楽屋がないとの声が聞こえてきた。
急いで事務所に行き、館長らしき人に楽屋を開けてくれと頼んだら・・・
貸すのはホールだけだ。楽屋は聞いていない、と・・・
流石に演奏家C氏が激怒して、現金を投げつけるように渡して楽屋を開けてもらった。
その他、日本では大問題になるようなこともチョコチョコあったが、現地では結構あるみたいなので割愛する。
そして、内蒙古自治区設立60周年及び日中国交35周年の公演は、日本の新進気鋭の作曲家による作品や、内蒙古の著名な作曲家によるシンフォニーや馬頭琴・二胡のコンチェルト、邦楽のソリストやソプラノ歌手による公演が盛大に行われた。
バッチリと現地の内蒙古テレビ局が入っていて、生なのか録画なのかは分からないが3台くらいテレビカメラも入っていた。
そして、その撮影方法がビックリするのである。
オケの中に堂々と入り込んで、演奏者を上から下から舐めるように撮影するのである。
しかし、演奏者たちもここ数日の経験が役立ったのか、動じることなく素晴らしい演奏を披露してくれた。
※内蒙古歌舞団
中国は全土に「歌舞団」と言う組織がある。小さいもので各町の10名程度から大きいものは数百名の規模まで、民族音楽(民族舞踊)から西洋音楽(バレエなども含む)の舞台・メディアの芸術活動を行う国立の交響楽団のようなものである。
内蒙古歌舞団は内蒙古自治区最大の歌舞団で、設立1946年、団員280名、世界中での海外公演開催など、内蒙古の芸術活動の中心的存在である。
“内蒙古大学芸術学院ホール公演”
初日の公演が終了して、ホッとしてホテルへ戻ったら今度は通訳とのトラブルがあった。元々は日本大使館からの紹介であったが、最終的にギャラのつり上げを求めてきたのだ。
ここまで来れたのは通訳の私の存在があったからと言わんばかりにかなり強い調子で訴えてきたが、お互いに少しずつ歩み寄ることで着陸できた。
その話し合いが終わるころ、私はソファーで完全に落ちていた。
寝ると言うより「落ちる」と言う感覚はなかなかない。
目覚めると今度は二日目の公演だ。
場所は内蒙古大学芸術学院ホール。
私は何度か訪れたことのあるホールだったので様子は分かっていた。
内蒙古芸術学院は民族芸術や西洋芸術の総合芸術大学である。
内蒙古自治区の各地からプロのパフォーマーを目指した若者が寮生活をしながら芸術や技術を磨く学校だ。
ホールも日常的に使われているので、初日のホールとは比べ物にならないほど準備が整っている。
一応、日本の演奏家たちが主役なので、舞監もM氏が務めた。
しかし、そこはやはりお国柄と言うか・・・
M氏が照明のキューを出しても全く言うことを聞いてくれない。
自分の好きなようにフェーダーを上げ下げしている。
反響版を組むこともなく、数本のマイクを立てた演奏会(ソリストの楽器が音量の小さいものがあることもその理由)となった。
音響卓は上手の最前列にドン!とあり、マルチも使わず直にマイクケーブルを引き回した手法にも不安はかなりあった。
と、裏ではバタバタとしていたが、公演そのものはトラブルもなく無事終了。
内蒙古文化庁との打ち上げパーティーも盛大に行われ、指揮者や現地著名音楽家などとの交流も計れ、テレビや新聞・ネットにも大々的に報じられ、一応大成功という認識を皆が持ったようだった。
“公演を終えて”
このように、最初から最後まで本当にない綱の上を歩いているような感じで終えることになった公演だったが、あれから10年経過した今でも思うことは有る。
人や国は習慣が違えば自分たちと全く違う言動が起こり得るということだ。
自分たちの日常を持ったまたそこへ行くと、必要以上に心も体も揺さぶられてしまう。
「私たちが日頃あり得ないことが起こることもあるのだ」と心の準備をしなくてはいけない。
そして、自分たちの日常で起こりえないこととは、すべてが悪いことではないことも。
人為的なトラブルがあったことも確かだが、また現地の少なくない人々の助けでできた公演でもあった。
本当に大陸的な彼らは自分がした「良いこと」にもお礼も求めず、公演終了後に親指を立てて「うまくいったな!」とばかりにニコッと笑う。
一つの物事に協力して団結したときは本当に国境も超えたと私は思う。
そして、またトラブルも起きるであろうが、いつかあのような公演を行いたいと強く思うのだ。